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第三講 仏教の受容と大陸文化の伝播
3.1 复习笔记
目次
一、仏教とその伝播 二、仏教の日本への公伝 三、聖徳太子と中国文化の受容 四、学問の伝播
関連知識:寺院;聖徳太子と陰陽五行説
一、仏教とその伝播
仏典の漢訳は、世界の文化伝播の歴史の中でも、最大級の事業の一つであり、インド?西域?中国の僧の数世紀にわたる共同作業によって進められ、膨大な量の漢訳仏典が積み重ねられていった。
そのため、中国の周辺の国の仏教は、漢訳仏典を基本とし、漢訳仏典の解読と読誦が、仏教の研修の基本とされた。日本でも、仏教の「お経」は、全て漢訳仏典であり、仏典の日本語訳が20世紀に入ってから行われるようになったのである。
二、仏教の日本への公伝
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www.100xuexi.com 1.始まり
圣才电子书 十万种考研考证电子书、题库视频学习平台 日本に中国の影響が大きく及ぶようになったそもそもの始まりは、一般に538年とされている。実際は、仏教はそれ以前から日本に入ってきていたようであるが、便宜上この公的な導入をもって、日本がはじめて意識的に中国から学ぶようになった年であるとすることになっている。 2.特徴
日本に伝えられた仏教は、西域に伝えられて変化した仏教が、高度な文化を持つ中国で、中国人の仏教として整えられ、さらに百済や高句麗に伝えられて百五十年後の間に、百済や高句麗の仏教として変化したものであった。
三、聖徳太子と中国文化の受容 1.聖徳太子と仏教
①徳太子は仏教に傾斜した最初の皇子であった。 ②飛鳥仏教との区別
飛鳥の蘇我氏が主導する飛鳥仏教は百済仏教を中軸とするものであった。いっぽう斑鳩の聖徳太子が意図したのは、隋と直結することにより、漢訳仏教圏の本源から仏教を学ぶことであった。 ③個人的信仰
聖徳太子にとって仏教は思想であった。聖徳太子の仏教は、個人的信仰に終始し、国家仏教の呪術にはならなかった。 2.中国文化の積極的受容 ①儒学への受容
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www.100xuexi.com 圣才电子书 十万种考研考证电子书、题库视频学习平台 6世紀の初めにはまた、百済から五経博士が日本に贈られて、儒学を伝えたことが、『日本書紀』(継体天皇6年の条など)に見えている。推古天皇の摂政としての聖徳太子の政治(593~622)は、仏教と儒教など大陸の先進文化に依拠しながら、国家の統一性を強めようとしたところに主眼があったとみられる。その面での太子の活動を代表するのが、『冠位十二階』の制定と、『憲法十七条』の作成とである。 ②仏教への受容
仏教に対する太子の熱意を示したものとしては、法隆寺の建立とならんで、三経義疏の著述がある。これは法華経?勝鬉経?維摩経という三つの仏典の注釈書であるが、漢文で記述されている点などから、太子の真撰であるかどうかを疑問視する主張は早くからある。 ③太子の言葉
疑う余地のない太子の言葉として伝えられているものに『天寿国繍帳銘』(中官寺蔵)の中の、「世間虚仮、唯仏是真」がある。 ④法隆寺の建立
太子が斑鳩の地に建立した法隆寺は、世界で最古の木造の建築とされるが、現在の法隆寺は太子の当時のものではない。
四、学問の伝播 1.学者の渡来 ①王仁の真実性
王仁の日本入朝は『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』などに記事がみえる。王仁は実在人物ではない説がある。本居宣長は『古事記伝』のなかで、儒教や漢字が日本でのちの時代に普及したとき、『論語』や『千字文』が啓蒙的な書物であったので、日本における儒
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www.100xuexi.com ②大化以前の学問教育
圣才电子书 十万种考研考证电子书、题库视频学习平台 教や漢字の起源を説くために王仁が両書をもたらしたと書いたにすぎないと述べている。
阿直岐や王仁の入朝を巡る『記』『紀』『古語拾遺』の記載によって知られるのは、大化以前における学問教育では、文字教育や儒教が基礎とされ、その教科書に『千字文』や『論語』が用いられ、皇太子の教育に渡来人の学者が家庭教師の役をつとめたことなどである。 2.留学生の役割
古代の日本が中国の学問と文化を摂取するためにいかに強い意欲を燃やしたかを示す例に、『日本書紀』推古天皇16年(608)の条にみえる八人の留学者の派遣がある。改新政治実施に参画?影響を与えていくが、彼ら留学生?留学僧が仏教?儒教のみならず、政治?経済をも学びとってきたことを如実に示すものである。 3.漢字の受容
中国における漢字文化が、いつどのようにして日本列島へ伝わり、いつごろから使われるようになったか。そこにはなお吟味しなければならない問題が潜んでいる。
5世紀後半から6世紀になると、「やまとことば」を漢字によって表現しようとする努力が積み重ねられて、借音仮名?借訓仮名が形づくられ、やがて、万葉仮名が成立する。 関連知識 1.寺院
歴史の上では、日本の仏教は552年に百済の王が天皇に仏像と経典を献上したのがはじまりだという。寺院は当時の先進的な知識人と技術集団をふくむ文化組織であった。そのころ新しい文化を取り入れる手段として私的寺院をつくることが豪族の間で流行し、それにともなって仏教がひろまっていった。
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www.100xuexi.com 圣才电子书 十万种考研考证电子书、题库视频学习平台 8世紀になると仏教は国家の政策として地方への伝播が推し進められる。国分寺計画がそれで、当時の行政単位である「国」のすべてに国分寺および国分尼寺の伽藍建設が計画され、財政的援助があたえられた。
日本での仏教受容は政治的、技術的な実益を期待するところがおおきかったのである。仏教が宗教として本格的に展開するのは、日本化が深められた平安時代以降のことである。 2.聖徳太子と陰陽五行説
7世紀はじめ、聖徳太子の指導のもとに中央集権化の動きがなされた。国家の保護のもとに学問研究に中心をおいた飛鳥時代から奈良時代にかけての仏教は、学問仏教と呼ばれる。
この時代の人々は、中国の経験科学である陰陽五行説を積極的に学んだ。当時の知識人は、陰陽五行説を知ることで、ある程度自然の動きをよめることに気づいて驚いた。 聖徳太子の時代以後、豪族層は競って中国の学問を身につけた。それを知らねば支配層としての資格がないとされる時代になったのである。
【中文版复习笔记】 一、佛教及其传播
佛典的汉译在世界文化传播史中是最大的事业之一,其通过印度、西域、中国的僧侣跨越数世纪的共同作业来推进,积累了庞大数量的汉译佛典。
因此,中国周边国家的佛教均以汉译佛典为基本,视汉译佛典的解读与诵读为佛教研修的基本。日本佛教的“经”也全部是汉译佛典,佛典的日译是进入20世纪后才进行的。
二、佛教向日本的公传
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顾伟坤《日本文化史教程》复习笔记和课后习题详解(仏教の受容と大陆文化の伝播)【圣才出品】
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